福岡の木村専太郎クリニック院長、木村専太郎の執筆した文献などをご紹介

郷土の医傑たち ~シーボルトの娘・楠本イネ~

はじめに

シーボルトの娘・イネは、多くの成書には日本の女医第1号として紹介されている。しかしイネより前に幾人かの女医が存在している。

シーボルトが持参したイネの肖像たとえば、弘前大学の麻酔科学名誉教授松木明知の著書「横切った流星」には、大和の国の女医「榎本住」のことが書かれている。
榎本住は文化13年(1816)4月10日に生まれ、彼女の父・玄文に医学を学んだ。住が23歳のときに、彼女の父は他界した。従って彼女が23歳のときの天保9年(1839)は、すでに医者であった。
おらんだおイネは、文政10年(1827)5月6日生まれであるから、天保9年の時点では彼女は12歳であり、まだ女医には成っていない。
しかしイネは、西洋医としては最初の女医である。

父シーボルトのこと

オランダ商館医シーボルトの詳細は割愛させていただく。
シーボルトは、オランダ政府から日本研究の特命を帯びて、文政6年(1823)8月8日に長崎に来た。
合計6年の滞在中に、長崎の鳴滝に塾を開き、多くの日本人の弟子を養成した。その弟子たちに、シーボルトは色々な課題を与え、オランダ語でレポートを書かせ、日本についての知識を得ていた。
その中に阿波藩(徳島)出身で、シーボルト最初の弟子で塾頭美馬順三が書いた「加賀流産科学」の文章が、ヨーロッパに紹介された。 美馬は、鳴滝塾で修業中の文政8年(1825)にチフスで、他界した。

文政11年(1828)9月、5年間の日本研究を行って帰国予定であった。
帰国予定の1ヶ月前の8月初旬、長崎港に停泊していたオランダの船には、シーボルトの蒐集品(しゅうしゅうひん)がすでに積載されていた。不幸にもそのとき台風が到来し、船は港の岸壁に打ちつけられ、シーボルトの大切な搭載品が流出した。その中に、日本地図や葵ご紋入りの紋服など多くの禁制品が積まれていた。
厳しい取り調べで、多くの関係者が逮捕され、シーボルトも、1年以上調べられて、日本から退去させられた。しかしシーボルトは帰国後、「ニッポン」という本を出版し、欧州に日本を紹介した。

おイネの誕生

シーボルトの愛人は、出島に出入りする遊女・其扇(そのぎ)で、本名は瀧といった。シーボルトは、彼女を「おたくさん」と呼んで可愛がっていた。
その瀧が身ごもり、文政10年(1827)5月6日に女子を産んだ。名前を「イネ」と付けた。

色々の字が当てられている。伊禰という字も、よく書かれている。戸籍の名前は「イ子」だそうである。後世の人々が、イネを愛称の「おらんだおイネ」と呼んでいるので、私もここに使わせて戴く。

シーボルトが長崎を去ったときは、イネはまだ3歳であった。シーボルトは、阿波出身の高良斎(こうりょうさい)と阿波出身の二宮敬作に、瀧とイネのことを頼んで日本を去った。

阿波で外科学を学び、備前で産科を学ぶ

12歳になった「おイネ」は瀧のもとを離れ、宇和島の二宮敬作のもとに来て、医者になりたいことを告げた。そして敬作から外科学を学んだ。
おイネに産科学をもっと学ばせるために、敬作は備前(岡山)で産科を開業していたシーボルト時代の友人石井宗賢はのもとに、おイネを派遣した。おイネ19歳であった。
おイネは産科学を学んだが、石井宗賢の子も出産して長崎に帰って行った。
そして、長崎で産科を開業していた。

再び阿波に

二宮敬作は長崎に行き、宗賢との件を知り、怒った。
そして再び宇和島にイネを招き、その地で開業させた。
当時宇和島には、長州藩の医者「村田蔵六」が、長州を逃れて滞在していて、秀でていた洋学の軍事学を教えていた。

村田蔵六は、おイネにオランダ語を教授している。
後日談であるが、明治になって、村田蔵六こと大村益次郎が、西郷隆盛とともに、勝海舟と合議の末に、江戸城を無血開城させた。

明治3年、不幸にも益次郎は京都で刺された。彼は大坂に運ばれ大坂病院で治療をうけた際、おイネは横浜から駆けつけ、恩師の看病に当たった。
しかし当時の医学は益次郎を救えなかった。益次郎は敗血病のために亡くなった。
おイネ親子は、宇和島第8代藩主・伊達宗城公と奥方に謁見した。その際藩主夫妻は、おイネの娘・たか子を寵愛し、のちの世話までしている。
イネはシーボルトの日本の名前「朱本」を使っていたが、伊達公の命令で、瀧の先祖が楠正成に関係あることから、「楠本」姓を使わせた。またそのとき「イネ」を、伊達の「伊」と、シーボルトの「篤(と)」に変えさせている。

シーボルト再来

シーボルトは、安政6年(1859)7月6日、30年振りに長崎に帰って来た。
瀧、娘のおイネ、そして二宮敬作もシーボルトに感激の再会をした。

3歳であった、おイネも33歳の立派な産科医に成長していた。シーボルトは、二宮敬作へ、長年のサポートに感謝したのは、言うまでもない。
シーボルトは、幕府の外交顧問として江戸に招かれて行ったが、江戸で攘夷論者の反対のために、シーボルトは外交顧問の任を解かれ、再び長崎の地に帰って来た。
そして文久2年(1862)3月12日に、長崎を去った。その夜に、二宮敬作は、脳出血のために、他界した。おイネは、恩人敬作の遺骨を分骨して、皓台寺(こうだいじ)の長崎の町と港が一望できる高台に墓を建てた。
その後イネは、江戸末期に長崎に来たポンペ、ボードイン、マンスフェルトらオランダ人の医師たちに師事している。

東京で産科開業

鳴滝のサイン(著者撮影)大村益次郎が、明治3年に大阪で他界したときに、横浜から駆けつけたことは前に書いた。 その後東京で産科を開業し、洋方女医として、名声を高めた。
明治6年7月、宮中で権典侍葉室光子の出産のときは、福沢諭吉の口添えもあって活躍している。

皓台寺に記念碑(著者撮影)その後父シーボルトの残した鳴滝塾が取り壊されたことを知ったので、一時長崎に帰り、父の意志を継いで、鳴滝の土地の確保と保存に尽力した。現在鳴滝塾跡がきれいに保存されて、横に新しく長崎市営のシーボルト記念館が建っているのは、おイネさんの功績であろう。
イネはその後、東京の産院を閉じ、静かに暮らしていた。そして明治36年8月26日、孤独のうちに77歳の生涯を閉じた。彼女の墓は皓台寺の二宮敬作の墓の横に、母瀧と共に眠っている。

《参考文献》
ふぉんしーふぉるとの娘(上下)/吉村昭(新潮新書)
宇和島藩医学史/宇和島医師会(宇和島医師会)
日本医家伝/吉村 昭(講談社文庫)
横切った流星/松木 明知(メディサイエンス社)
日本医家列伝/中西 啓(株式会社P&C)

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