開学以来、南冥の西学問所・甘棠館は朱子学派の東学問所・修猷館と対立していた。
第9代徳川家重と10代家治の代に活躍した老中・田沼意次の乱れた時代のあと、第11代家斉時代の幕府の老中・松平定信が、寛政2年(1790)に行った寛政の改革の一つに、寛政異学の禁がある。
これは儒学の中で上下関係を重んじる朱子学のみを江戸昌平坂学問所で講じるようにした。
全国の藩もそれに従ったために、亀井南冥もこの寛政異学の禁の余波と、対立した学派による中傷などによる影響のために、寛政4年(1790)に藩命により、蟄居の処分を受け失脚した。
その後は長男の亀井昭陽が甘棠館の後を継いだが、その後2度の火災が発生し、寛政10年(1798)に甘棠館は焼失し、甘棠館が廃校になった。
南冥はその後姪浜に引退していたが、文化11年(1814)3月2日、南冥の住居が焼失し、そのときに不幸にも死亡したという。享年72歳であった。彼の著作には、医に関するものは『古今斎以呂波歌』『南冥問答』『弁惑論』などがあり、その他「肥後物語」など著作に「論語語由」「肥後物語」などがある。
昭陽は父の引退後に、浄満寺(福岡市中央区地行)の横に流れる今川橋の西側あたりに、百道社という私塾・亀井塾を創り、亀井南冥の学問を継承していった。
その門下生には有名な日田の広瀬淡窓らがいる。また昭陽のあとは、嫡男・陽洲(鉄次郎)が家督を継いでいった。
亀井家の書提寺は浄満寺である。以前は山門の横に南冥と昭陽の墓があったが、現在は墓地の西端中央部に「亀井家一族の墓」がある。また福岡市西区の能古島博物館に、亀井南冥の遺品が保管されているという。
このシリーズで以前に永富獨嘯庵や広瀬淡窓の文章を書いたときに、処々に亀井南冥の名前が出ていた。亀井南冥を書くために、文献を集めていた。
昨年の暮れに南冥の生家を苦労して発見して以来、このシリーズ2月号には、「亀井南冥」を書こうと思っていた。
《参考文献》
1)儒侠亀井南冥 高野江鼎湖 KK文社(1913)
2)「九州の儒者たち」(海鳥ブックス9)
西村天囚 海鳥社(1991)
3)「博多町人と学者の森」(はかた学6)
朝日新聞社福岡本部編 葦書房(1996)
日 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 |
8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 |
15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 |
22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 |
29 | 30 | 31 |
日 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | |||
5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 |
12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 |
19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 |
26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 |
日 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | ||||||
2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 |
9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 |
16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 |
23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 |
赤字の日が休診日となっております。