この医報の今年の10月号に大村藩医の長与俊達・其の一を書いた。
今回は、俊達は自分が天然痘に感染していて免疫があることもあり、「古田山」に藩の協力のもとに、人痘専門の種痘所を作るところから述べる。
シーボルトが文政6年(1823)に長崎に来日し、翌年長崎郊外の鳴滝に塾を作り、日本人医師を教育していた。
シーボルトは牛痘漿を持参したが、腐敗して成功しなかった。俊達は大村藩にシーボルトの下での留学願いを提出したが、却下された。
そして5年後の文政11年(1828)に再度学願いを出した後に、例のシーボルト事件が発覚してために、俊達にも疑いがかかり、自宅が捜索された。
幸にもシーボルトとの接触は否定されたが、家から多くの蘭医学書が発見されたために、漢方医学を藩のたてまえとしている大村藩は俊達に、蘭書没収と自宅蟄居を申しつけた。
藩からの禄が中止されて経済的に困窮していたが、ちょうどその頃長女の婿の中庵が江戸の多紀家での修行を終えて、大村に帰藩した。
蟄居中の俊達は、有田の近くの波佐見の中庵の実家に依頼して、蘭医学書を購入し中庵と他の弟子たちと、蘭医学の研究を続行していた。
藩主大村純昌が息子の純顕を連れて江戸から帰国した。
しかし、栄養状態が悪く、病気がちであった。江戸の医師も大村のどの医師も、純顕の状態を改善できなかった。
しかし俊達の医学的なアドバイスを藩医が取り入れ、純顕の健康状態が改善した。俊達は駆虫薬を用いることを提案していた。
この適切なサジェスチョンを藩主が知り、俊達の蟄居は中止になった。
俊達は文政13年(1830)に近藤祥山、今道俊索防とともに、天然痘の専門家である「痘家」に指名され、天然痘の治療に当たることを命じられた。
俊達は天然痘治療と種痘での予防のために、古田山に藩の費用で立派な診療所、病舎、医者の家、藩の見回り役人の宿舎、藩主一族の種痘摂種ための御殿部屋などの設備が整えられた。
当時日本には、少なくとも西日本には牛の天然痘は存在しないために、天保3年(1832)ころと推察されるが、俊達は人間の天然痘を牛に苗えて、牛痘を発生させようとしたが成功しなかった。
種痘摂種後に50日間、この古田山に滞在しなければならなかったが、後に武家の家族が種痘を受けて、ここに多く滞在するようなり、50日間は長すぎるという苦情が出たため、種痘後この規則は俊達の努力で短くされた。
俊達は、治療のために自宅を離れて長期間、この古田山痘瘡所に滞在することも、しばしばであったという。
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