亀井南冥は江戸中期の終わりに活躍した黒田藩の儒医で、同じ藩の儒医・貝原益軒と同じく、医師としてよりも儒学者として有名である。
有名度は貝原益軒が全国区であるのに対し、亀井南冥は残念ながら地方区である。私は医学生時代に福岡市中央区地行西町(現在の地行・福岡ドーム付近)に住み、西新町に徒歩で行く途中にある浄満寺の前に「亀井南冥の墓」の碑が立っていることに気づいていた。
しかし、医学史に興味を抱いて、初めて亀井南冥のことを知るようになった。残念ながら南冥に関する文献は少ない。
ひょんなことから、平成21年11月に福岡市西区姪浜にある生誕地を訪れたのを期に、亀井南冥を書きたいと思っていた。
南冥は、寛保3年(1743)8月25日、筑前国早良郡姪浜村(現福岡市)に、村医亀井聴因の長男として生まれた。
父は医者であったが、当時の社会では、その身分では百姓であった。父は田舎には珍しく開明の人で、当時の清新な学派とされた孔子の論語を学ぶ狙篠学に親しむとともに、医術も新しい医法を採用していたために、近隣の信望を集めていた。
南冥の通称は主水、諄は魯、字は道載、号は南冥である。幼少時から、このような聡明な父の下で学問に励み、14歳のときに肥前国蓮池の学僧大潮に師事し、更に京都の吉益東洞に師事したが、すぐに大坂(大阪)の永富独嘯庵の門に入った。
独嘯庵は、長州下関出身の儒医で、筑前小倉の後世派医・香月牛山に師事し、のちに京都の古方医・山脇東洋の門下生となった。
南冥は独嘯庵から荻生狙篠の儒学と古方医学を習った。20歳の南冥は、独嘯庵の著作『漫遊雑記』の序文を依頼される程の秀才であった。
独嘯庵の弟子に蘭学者・小石元俊と儒学者・小田享叔が居て、南冥は彼らと共に「独嘯庵門下の三傑」と呼ばれた。
小石元俊は大坂で開業した蘭方医であるが、日本医史学上重要な人物である。元俊から橋本宗吉が育ち、橋本宗吉は中天游を育て、中天游から緒方洪庵が巣立っていった。
洪庵の適塾から幕末と維新の時代に活躍した橋本左内、福沢諭吉、長与専斎そして大村益次郎たち、多く逸材が輩出されていったことは周知のことである。
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