嘉永元年(1848)、関寛斎が18歳のときに、佐藤泰然(たいぜん)(1804-1872)が天保14年(1843)に開設した佐倉順天堂に学ぶようになった。泰然は江戸薬研堀(やげんぼり)に「和田塾」を開いていたが、佐倉藩主・堀田正睦の招きで佐倉に移った。
寛斎の実家の経済状態は悪く、仕送りは一年で途絶えた。そのために、寛斎は未明に起床し、調合所や病院の掃除などの雑用をこなして、学業を継続させてもらった。寛斎の優秀さは、次第に泰然の認めるところとなり、入門3年目の嘉永4年(1851)に、泰然の助手となって手術を手伝い、徐々に実力が認められて泰然の代わりに手術を行うようになった。
また、泰然の指示で寛斎が記録した「順天堂外科実験録」には、当時の麻酔無しでの日本最初の膀胱穿刺術や帝王切開手術、術後病理解剖の必要性を示唆する事例などが克明に記述されているという。
嘉永5年(1852)、寛斎22歳のとき、故郷の「前の内村」で仮開業して、順天堂に通っていた。このとき“寛斎”と改名した。12月に養父・素寿の弟の娘「君塚あい」と結婚し、安政元年(1854)2月に長男・初太郎が東金で誕生した。
銚子に順天堂医学が伝わったのは、天保13年(1842)に泰然の友人で弟子の三宅艮斎(ごんさい)が、銚子で開業してからである。2年後の天保15年(1844)、艮斎が佐倉藩堀田侯に推挙されて去り、その後を継いで泰然が銚子に通っていた。安政3年(1856)、26歳の寛斎は銚子で開業するようになり、正月25日下総国銚子港荒野(のちの興野)に転居した。
寛斎の家の近くに和歌山のヤマサ將油醸造業の浜口梧稜(ごりょう)の邸宅があった。梧稜は歴史上に名を残すほどの篤志家であり、その後寛斎は、この梧稜の知遇を受けることになる。
安政5年(1858)、江戸にコレラが大流行した際、梧稜は寛斎を江戸の、三宅艮斎の下に派遣して、コレラの予防法を学ばせ、必要な薬品と器具を購入し、コレラの銚子への伝染を防いだ。
梧稜は、これまでの寛斎の働き振りとその医学知識の深さから、寛斎の人物と力量を高く評価し、長崎での和蘭軍医ポンぺ・ファン・メーデルフォルト(通称・ポンぺ 1829-1908)の下で学ぶように資金援助をした。
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